INICIAR SESIÓN隼人くんの手が腰から離れたあとも。触れられていた場所だけは、しばらく熱を残していた。「大丈夫?」もう一度聞かれ、私は小さく頷く。「はい」ヒールの先を確かめるように、一歩踏み出した。足元は、もう安定している。床のわずかな継ぎ目へ踵が引っかかっただけだった。隼人くんが支えなくても、姿勢を崩す程度で済んだかもしれない。それでも。腰へ回った手と。倒れないように引き戻された一瞬の近さが、身体の中に残っていた。手をつないだ時よりも。先ほど腕へ触れた時よりも。近かった。隼人くんの胸元も。私だけへ向けられた目も。そして、その距離がなくなった今。自分の隣へ戻った空間を、少しだけ寂しいと思っている。私はこれまで。隼人くんが私へ触れないことに安心していた。急がされない。求められない。私が選んだところから先へ、勝手に連れていかれない。その慎重さが心地よかった。けれど、今夜。私は自分から隼人くんの腕へ触れた。誰かに見せるためではない。恋人らしく振る舞うためでもなかった。ただ、この人が来てくれたことを確かめたかった。腕の硬さを掌で感じ。肩のすぐ近くへ身体を置いた時。驚くほど安心した。それがなくなったあとで。もう一度近づきたいと思っている。その意味までは、まだ考えられなかった。今夜はもう。自分の中に生まれる気持ちを。一つずつ、丁寧に。確かめるだけの余裕が残っていなかった。「どの絵を見せてくれる?」隼人くんが聞く。声は、いつもの穏やかなものへ戻っていた。私は会場の奥へ目を向ける。優と見た青と緑の絵が、少し離れた壁に見えた。「あの絵が、一番気になっていました」「もう見た?」「はい」隼人くんの視線が、青い絵へ移る。ほんの短い時間だった。「そっか」誰と見たのか。何を話したのか。聞かなかった。「ほかにも、見たいものはある?」「あります」私は、その隣へ展示された小さな作品を示した。淡い灰色と白の間に、ごく細い金色が引かれている。案内状では目に留まらなかった。けれど、会場の照明を受けると、見る位置によって線が現れたり消えたりしている。「あれが気になります」「じゃあ、行こうか」隼人くんが歩き始める。私の腕へは、もう触れなかった。それでも。先ほどよりも少しだけ近い位置にいる。肩が触
今は。ここから離れることだけを優先している。人の少ない通路へ入る。作品と作品の間が広く取られた場所で、会場の中心から少しだけ死角になる。それでも、完全に二人きりではない。向こう側では、別の招待客が絵を見ている。私はまだ、隼人くんの腕をつかんでいた。離した方がいいと思う。けれど、指が動かなかった。隼人くんが、少しだけ顔を寄せた。近くにいる人へ聞こえないようにするため。そう分かっていても、耳元へ声が落ちる距離に、呼吸が止まりそうになる。「綾香ちゃん」仕事の場では使わない呼び方。その音だけで、胸の奥がほどける。「今日は、普段よりも綺麗だけど」一度、言葉を切る。声が、わずかに低くなった。「こういう場だと心臓に悪いから、今度からやめて」意味を理解するまでに、少し時間がかかった。「え」隼人くんが、ほんの少しだけ笑う。けれど、目には冗談ではない熱があった。私を見ていた人たち。声をかけてきた男性たち。隼人くんも。会場へ入った瞬間から、それへ気づいていたのだろうか。「それは」何と答えればいいのか分からない。顔が熱くなる。先ほどまで。優の言葉で揺れていた。結婚していた頃にはなかった愛情を向けられ。もしも、と考えそうになっていた。けれど今。隼人くんの一言だけで。胸の奥へ、まったく別の熱が広がっていく。動揺したまま足を進める。ヒールの先が、床のわずかな継ぎ目へ引っかかった。「あ」身体が傾く。つかんでいた隼人くんの腕へ力が入る。次の瞬間。腰へ自然と手が回った。強く抱き寄せられたわけではない。倒れそうになった身体を支えるために。片手が背中に近い腰へ触れ、確実に重心を戻してくれる。隼人くんの身体が、すぐ近くにあった。手をつないだ時よりも。腕をつかんで歩いた時よりも。ずっと近い。身体の側面が触れそうな距離。腰へ置かれた手の温度が、ドレス越しにはっきりと分かる。私は顔を上げた。隼人くんも、こちらを見ていた。いつもより、少しだけ長く。視線が重なる。人の声が遠くなった気がした。何かを言わなければと思うのに、言葉が出ない。隼人くんの目には。会場へ入った時の柔らかな社交性も。人へ向けていた感じのいい笑みもなかった。私だけを見ている。それが、はっきりと分かった。「気をつけて」低い
「今日はお越しになると伺っていなかったので、驚きました」隼人くんが、真哉兄さんへ向き直る。「多分、初めましてではないですよね」一瞬。真哉兄さんが目を細める。それから、何かを思い出したように笑った。「そうですね。父の会で、何度か」「ご挨拶だけでしたが」二人は軽く会釈を交わした。「綾瀬先生の息子さんですよね」真哉兄さんが言う。「綾香が、いつもお世話になっています」妹の勤務先の院長へ向ける、礼儀正しい兄の挨拶だった。けれど、その言葉の前にはやはり。綾瀬先生の息子。という家の関係が置かれている。「こちらこそ」隼人くんは、少しも気を悪くした様子を見せなかった。「白松先生には、クリニックの方が助けていただいています」真哉兄さんは、わずかに会場の入口へ視線を向けた。「お父様はいつもお誘いしているんですが」「今回は、別件があって早めには来られないと伺っていたので」言葉の終わりに。では、なぜ息子が一人で来たのか、という問いが含まれていた。隼人くんは、意味が分からないふりをすることも。私が呼んだと、正直に言うこともしなかった。「ええ」少しだけ笑う。「父は、今日は難しいと思います」答えはそれだけだった。来場した理由を、家の予定へ結びつけない。かといって、誰かに説明を求められる余地も残さない。そのまま隼人くんは、会場の奥へ視線を向けた。綾香ちゃん、と。人前では使わない呼び方が出るかと思った。けれど、隼人くんは一度だけ言葉を止めたあと、自然に続けた。「白松先生」「せっかく来たので、絵を見せてもらえますか」問いかけは穏やかだった。周囲には、勤務先の院長が、先に来ていた医師へ展示の案内を頼んでいるようにしか聞こえない。けれど。隼人くんは、私がこの場を離れられる口実を作っている。「はい」返事をする。隼人くんが、先に会場の奥へ身体を向ける。その時。今までにはなかった動きで、私の腕へ軽く手を添えた。手首ではない。肘の少し上。ドレスの薄い生地越しに、掌の温度が触れる。強く引かれたわけではない。こちらへ、と方向を示すように、ほんの少しだけ力が加わった。それだけで。胸の奥が大きく鳴る。隼人くんから。人前で触れられたことはなかった。手をつなぐ時でさえ、いつも私から触れるのを待っていた。それなのに
声をかけられ、隼人くんが足を止める。「ご無沙汰しています」相手は、隼人くんの父親か兄の知人なのだろう。隼人くんは驚いた様子を見せながらも、雑に会話を切り上げようとはしなかった。相手の近況を尋ね。以前聞いていた家族の話にも触れる。少し離れたところから別の人に呼ばれれば、そちらへもきちんと頭を下げる。早く私のところへ来ようとしているはずなのに。誰かを無視したり。自分の目的のために、相手を粗雑に扱ったりしない。丁寧に。真摯に。けれど、必要以上に長く留まらず。少しずつ、こちらへ近づいてくる。隼人くんの姿を見た優の表情が、ほんのわずかに強張った。口元も。姿勢も変わらない。けれど、それまで柔らかく私へ向いていた目から、一瞬だけ温度が消えた。「綾瀬家の人間が」真哉兄さんも入口へ目を向ける。「今日来る予定はなかったと思うけど」隼人くん本人ではなく、まず綾瀬家の人間として見る。それが、真哉兄さんにとって自然なことなのだろう。父の協賛先。医療法人を経営する家。今後、白松の仕事とつながる可能性のある存在。今夜の会場へ現れた意味を、仕事と家の関係から考えている。「どうして来たんだろう」真哉兄さんが小さく呟く。私は答えなかった。私が呼んだ。そう言えばいいだけだった。けれど、言葉にしようとすると、胸が詰まりそうになった。兄と一緒にいても。私は、安心できなかった。兄に誘われ。自慢の妹だと褒められ。疲れていると伝えても、あと一人だけと人へ差し出された。優がいても。助けられながら、揺さぶられ続けた。それなのに。会場の入口に隼人くんが見えただけで。ようやく息を吐いていいような気がした。私が助けを求めた相手は。兄でも。元夫でもなかった。そのことを、初めてはっきりと自覚した。「白松先生?」目の前にいた男性から呼ばれる。「すみません」意識を戻す。「お食事の件ですが」「申し訳ありません。個人的なお誘いはお受けしていません」先ほどよりも、少しだけはっきりと答えた。男性は一瞬残念そうな顔をしたが、すぐに引き下がった。その向こうで。隼人くんがまた別の人に呼び止められている。苛立った様子はない。相手の話へ耳を傾け、感じよく応じている。社交の中心へ入ろうとしなくても、自然に人が集まる。優とは違う形で
「それは素晴らしい」男性が感心したように頷く。「やはり、あの事業はご夫婦二人で成功させたようなものですね」「外からは東郷先生の手腕ばかり見ていましたが」別の男性が私を見る。「家庭で支えていらした奥様の存在も、大きかったんですね」「本当に、完璧なご夫婦だったのに」女性の声が加わった。「離婚されたのは、残念です」また。完璧だった夫婦。残念な離婚。優が私の支えを認めた言葉まで。周囲の中では、私たちが別れたことを惜しむ材料へ変わっていく。「でも、今もこうしてお仕事では信頼し合っていらっしゃるんでしょう?」「もったいないですね」「本当にお似合いでしたから」好意から向けられる言葉だった。優が、妻だった私を人前で立てたから。その敬意を美しいものとして受け取り、二人が別れたことを残念に思っている。誰も。私たちを傷つけようとはしていない。それでも。胸の奥へ、細かなざらつきが広がった。私が家で支えていたことを。結婚していた頃の優が、当然として受け取っていたことを。優自身は、今になって理解した。けれど周囲は。献身する妻と、仕事で成功する夫。互いに支え合う完璧な夫婦の物語として聞いている。その内側で。私がどれほど自分を後回しにしていたのか。何も求めない妻になろうとしていたのか。優の仕事へ理解を示すたび、自分の時間や希望を小さくしていたことは、どこにも残らない。「綾香は」優が、周囲の空気を察したように口を開いた。「妻としてだけではなく、一人の人間として、私よりずっと多くのものを持っていました」私を見る目が、さらに柔らかくなる。「それを、当時の私は十分に見ていなかったんです」一瞬。周囲が静かになる。けれど優は、場を重くしすぎないよう、わずかに口元を緩めた。「ですから、離婚については綾香の選択を尊重しています」「現在も仕事では信頼できる相手ですし」「私が今さら、周囲の皆様へ惜しんでいただける立場でもありません」笑いへ逃がすほど軽くはなく。相手に謝罪させるほど重くもない。誰も不快に思わない形で。私の離婚が、間違った選択だったわけではないと守っている。また。結婚していた頃にはなかった優しさだった。なぜ、今なのだろう。私がもう妻ではなくなってから。優の生活を支えることをやめ。自分のための生活を
『場所はわかるから、すぐに行くね』画面に表示された言葉を、もう一度読む。どこにいるのかも。何があったのかも聞かれなかった。私が連れ出してほしいと伝えたことだけで。来ると決めてくれた。そのことに。胸の奥を締めつけていたものが、少しだけ緩んだ。『はい』返信する。『真哉兄さんの会社が主催しているところです』送ると、すぐに既読がついた。『分かってる』 『もう出るところ』家で仕事をしていると言っていた。着替える時間も。ここまで来る時間も必要なはずなのに。どれくらいかかるのかとは聞かなかった。すぐに行く。その言葉だけで、今は十分だった。スマホを胸元へ抱えそうになり、直前でやめる。鏡の前へ移動し、自分の顔を確認した。化粧は崩れていない。目元も赤くはなっていない。口元へ薄く笑みを作れば。誰にも何があったのかは分からないはずだった。それでも、鏡の中の私は。家を出る前とは違って見えた。ドレスも。パールも。同じように整っている。けれど、楽しみにしていた気持ちだけが削られて。その内側へ疲れが溜まっていた。冷たい水で指先を濡らす。目元へそっと当てる。まだ帰れない。隼人くんが来るまで。真哉兄さんと優のところへ戻らなければならない。私は一度ゆっくり息を吸い、化粧室を出た。***二人は、先ほどと同じ場所にいた。真哉兄さんはスマホを手にしていて。食事のできる店を探している。優はその隣へ立ちながら。会場を行き交う人へ時折会釈を返していた。私に気づくと、優の視線が短く顔へ留まった。何かを確認するような目だった。けれど、何も聞かない。「近くの店、席を用意できるって」真哉兄さんが顔を上げる。「少し遅い時間になるけど、大丈夫?」「うん」返事をしながら、自分の声を確かめる。いつもと変わらなかった。「移動する前に」優が口を開く。「もう少しだけ、ここで案件の確認をしてもいいですか」「もちろん」真哉兄さんは、すぐに仕事の顔へ戻った。「ちょうど、父さんの関係者も何人か戻ってきたから」その言葉に、また人へ紹介されるのかと、身体がわずかに硬くなる。けれど、真哉兄さんは私の反応には気づかず、優へ続けた。「以前の複合開発のことを聞きたいって人がいて」白松家の不動産事業と、東郷側の法務が連携して進めた、
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて